スポンサーリンク

島耕作に知る「いい人」をやめる男の成功哲学 2

今回のテーマは、”「いい人」の人生はなぜつまらないのか?”です。
著者の意見を一言で言えば、こうです。

「他人に好かれても、自分に嫌われる」人だから。「ときには周囲に裏切られ、ときには自分のバカさ加減に嫌気のさすこともあるだろうが、そんな経験も無駄とは思わない。未熟さも含めて、自分の行動に責任を負う決心が備わるからだ」

「いい人」であり続けることはしんどい。誰からも嫌われないようにすることが本質にあり、そのための努力を常に怠らないことが求められる。たとえ、自分の意にそぐわなくとも、一生懸命嫌われないようにと、言動や行動に気を使い続ける。果たしてそのような人は好かれるのであろうか? 確かに嫌われないかもしれないけれど、魅力的には映りはしない。だって、その人らしさが感じられないから。

さらに著者はこう付け加えている。

「何より意味がないのは、「いい人」は誰からも好かれているという思い込みだ。」(中略)キミは誰からも「いい人」と思われ、親しまれる。するとつい、人望があるんだなと錯覚してしまう。そりゃそうだろう、パーティーには必ず声がかかる。仲間内の遊びにも必ず声がかかる。いろんな人が情報を漏らしてくれる。キミの言うことにも頷いてくれる。少しも孤独感を味わわないですむ。でも、そこまでだ。」

では、なぜそこまでして「いい人」を目指すのか? 学校教育? 社会構造?
そんなことはこの際どうでもいいことしておいておこう。

著者はこう続けている。

周囲が期待する「いい人」になり切ることで、自分の居心地のよさを確保する。出る杭になるよりも、横並びでいることに安心感を覚える。

何のために生きているのか? 志をどう持っているのか? ここに行き着くのではないであろうか。自分に偽ってまでも演技する必要がどこまであるのであろうか。
もちろん「大人としての振る舞い」が求められるのが社会というもの。これは、社会的な秩序を守り、共に生きていくための知恵である。しかし、今テーマにしているのはそんな次元の話ではない。
最近、研修をしていて思うことは、相手との意見の衝突や価値観の鞘当を嫌う人が多くなっている。

YESサインを送ることを善しとして、他者の価値観を受け入れたり自分との違いを声に出すことが極端に減っている。これでは、深いレベルでの交流はできない。
これは、自分の軸に自信をもてていないことも一因であろう。しかし、自立していないことが最も大きな要因ではないであろうか。

そしてこのことについて、著者はこう締めくくっている。

自立とは、小さなことに拘泥しない自分のルールを持つことだ。やるべきことは、やる。つまり気合だ。

さすがに”気合”という言葉が唐突さを感じさせるが、確かにそうであろう。ここでいう”気合”は、志であり、自分の夢であり、目的である。こうすると実にしっくりくる。

自分の生き方に責任を持とうとしているか? ここから逃げてしまっているのが「いい人」なのであろう。

次回は、なぜ「いい人」にこだわってしまうのか? というテーマを考えたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました