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現実感のない理想論は害悪になる

前回は『(参考)旧来の「日本型雇用システム」の見直し』について紹介しました。

その際、「方向性を示す「べき論」としてはとても明快で的を射ている。しかし、何かしらの思い違いがあり、こうした議論だけでは自ずと限界があるのではないか」ということを述べました。つまり、「一面からしかものごとを見ないべき論」や「現実の制約を無視した戦略のない理想論」では前進できないばかりか、失敗してしまう。

この状況に対して閉塞感を覚えていたが、その違和感に答えてくれる記事があったので紹介します。

まずは個人に対する評価について。

「能力」によって全社員を査定し、「資格」を付与する職能資格制度は、日本企業の1つの特徴といえます。個人の専門性や成績よりも、学歴や就労年数の反映でもある職能=社内のランクで従業員を評価するという仕組みです。これがなぜ連綿と続いているのかというと、企業を横断するような評価基準がないからなんですね。

EUでは、国を超えて共有できる学位や職業資格の基準を作っています。転職の場合でも新卒の就職の場合でも、その基準に則った資格を提示することで、国を越えて相応の職を得ることができます。

ところが日本の場合にはそういう企業横断的な基準がないので、結果として、企業は従業員を長期観察して評価するしか方法がない。3年、5年、あるいは10年、どんな働き方をするか、真面目に仕事をするかといったことを上司が観察することによって社内ランクを上げていく。そのやり方が幅を利かせているわけです。

また、日本はガラパゴス社会を作りやすい土壌がある。

自社にしか通じないルールがあり、一部の受益者の既得権益を守るための巧妙だけれども矛盾だらけのルール(不文律も含む)がある。封建社会から脱しきれていない。この土壌を改革しない限り『同一労働、同一賃金』など絶対に普及しないであろう。

もともと新卒採用自体、教師による長期観察でお墨付きをもらった学生を「推薦」という形で企業に送り込むことを目的に始まったシステムですから、学校に対する企業の信任は厚い。それが現在も尾を引いて、学位や専門能力でなく偏差値や学校名を重視するという、いわばカギカッコつきの“学歴”信仰につながっているのだと思います。

近代的な価値観を未だに引きずっていて、メスを入れようとしない企業人事の思考スタイルが脈々と受け継がれている。大学入試試験制度も同様。いったい何がしたいのだろうか?

「日本」という国の制度や仕組みを論じる時、通勤電車の混雑解消だとか保育園の拡充が必要だといった具合に、大企業型の生き方を念頭に置くことが多いけれども、それは語り手の多くが大都市のメディア関係者であり、大企業型に属しているからなんでしょうね。

だんだんと答えは見えてきた。

多様性を無視した一面的な見方が存在する。支配者がルールを作る。かつてはその傘の下に入れば安全だった。しかし、企業が守ってくれる時代は終わった。だから企業に守ってもらうことに慣れてしまった古株は自身の活躍の場を失ってしまう。

だからこそ自ら考えることが重要になる。いわゆる大企業とは距離を保ち、「組織」ではなく「個」に着目することで脱却できる。

まずは「自ら企業に隷属する」という考え方を変えるだけで前進できると思う。個人が企業に価値を提供して、企業リソースをうまく利用することがキーになる。

では、どのように考えていけば良いのであろうか? これから順番に考えていきたい。

 

 

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